2010年3月20日土曜日

わたしは死刑に賛成します。

最初にわたしも大ファンの、通称「テキサス親父」さんの動画をご覧ください。



死刑に関して出る賛成派の意見としてどんなものがあるでしょう。
テキサス親父さんのいわれていることが大体だと思うので
わたしなりの目線からそれぞれを考えてみたいと思います。

犯罪への抑止力
はっきり言えば一部とはいえこれが目的で死刑が行われたならば
それは「見せしめ」、打ち首獄門そのものです。
そう考えると西暦も2000年を超えたこの時代に対して違和感を感じます。

仇討ち、敵討ち
被害者の気持ちから考えたなら
人を殺しておいて生きていることが許せないことも、そんなことをする人間からは人権と生きる権利を剥奪すべきだという考え方も、気持ちの面から考えたならとてもよく理解できます。
わたしが被害者の立場になったなったなら正気を保っていられない程に強い復讐心を抱くかもしれません。

しかし上記のことを考える以前にもっと考えるべきことがあります。

再犯です。

殺された人にも、殺人を行ったものにも、そして
これから殺される人にも人権があります。
犯罪者の人権を守ろうとすることで、次の被害者の人権が蹂躙されることなど
どう考えても許される理屈はありません。
これは少年犯罪でも同じ事です。わたしは18歳未満への死刑にも賛成します。
無期懲役が「死ぬまでの」ではなく「満期が存在しない」刑罰で
中には社会に戻り、その後に殺人を再び起こすことがありえ
刑務所の収容人数に限度がある以上、なんの罪のない人の命を守るという絶対的な目的のためには、死刑はやむを得ないというのがわたしの考え方です。

よく死刑反対論者のいう冤罪によって誤って刑が執行される可能性も確かにあるのですが
それが理由で死刑が廃止される事で罪のない命が失われて可能性を残しては絶対にいけないはずです。

「犯罪とは無縁の平和な生活を送っている人の命を守る」
これを考えたなら、
「人が人を裁いたり殺したりして良いのか」
「被害者感情」
「抑止力の有無」
「冤罪」
などを考える以前の問題だとは言えないでしょうか。

2010年3月15日月曜日

むかーしからの疑問

ふと偶然目に入った記事について書いてみようと思います。

疑似児童ポルノ摘発 成人が剃毛し少女役
(ブログで楽しむニュースサイト「イザ!」より)
記事中では
"疑似児童ポルノ"が出回りだしたのは5年ほど前から
とありますが
わたしは10年以上前からあったのを実際に見ています。

いつからか、「疑似炉」と呼ばれてひっそり存在していたジャンルでしたが
最近は徐々に表現が過激になってきていたので、
個人的いえば
炉というにはあまりに違和感を感じるモデルばかりの力武作品より
年齢をはっきり表示して
通常なら到底目にしない様な卑猥な水着を着せた
10代前半の女の子の出演作品を堂々と売っている
「会田我路」作品の方がよっぽど限度を超えていると思うのですが、
どういう訳だか全く話題に上がることさえないのは何故なんでしょうか。
でも力武氏が捕まったなら、その筋のファンの内の多くは
次は会田我路かな?と思ったと思うのですがどうでしょうか。

たびたび強い疑問を禁じ得ない発言をするユニセフが
「たとえ出演者が成人であっても、子供を性の対象としてみる風潮を生み、
子供を性暴力などの危険にさらす可能性がある。
日本も疑似児童ポルノを含めて厳しく対応すべき」
とコメントしているそうですが

危険にさらす可能性が客観的に示された話は聞いたことがありませんし
子供を性的興味の対象とする考え方、
今の時代まちがっていることではありますが
風潮の定義から考えても
「時代とともに変わる世間一般の傾向。時勢。」とは根本的に違うとおもいます。
わたしは決して児童性愛を肯定する物ではありませんが
たとえばアニメや漫画などに表現される物も含めて、
そういう考え方を持った人の屈折した欲望のはけ口になっている
という、いわば"必要悪である"とする考え方も出来ると思います。

表現の自由を含め、自由とはリスクがどうしようもない付いてくる物で
一方的な考え方によって規制された物など、自由でも何でもありません。